「柿本人麻呂伝『新日本書紀』列伝2の頁
2017年9月1日開設


 「柿本人麻呂伝」『新日本書紀』列伝2は、
『新日本書紀』(2017年7月現在版)第二部新孝徳紀から新持統紀までの天皇紀より、
柿本人麻呂に関係する記事を抽出し、
『新日本書紀』(2017年7月現在版)第三部第6章「柿本人麻呂」と第7章「人麻呂の子躬都良」を加え、
それらを年代順に並べ、
その上で新たな研究成果を盛り込み、大幅な加筆と修正を行ったものです。
柿本人麻呂という歴史上著名な人物について、万葉集、日本書紀、続日本紀などを読み解くことで
その人生をたどりつつ、柿本人麻呂にまつわる謎の数々を解明し、
柿本人麻呂の生涯を明らかにしています。

 

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目次

 はじめに
 第1章 孝徳帝の代─誕生─
 第2章 斉明帝の代─少年時代─
 第3章 天智帝の代─青年時代─
 第4章 弘文帝の代─壬申の乱─
 第5章 天武帝の代─デビュー─
 第6章 持統帝の代─宮廷歌人の結婚─
 第7章 遣唐使と古事記─刑死─
  1 刑死の原因
  2 刑死への道程
  3 鴨山での死
 第8章 いろは歌─没後─
  1 刑死の伝達
  2 刑死の波紋
 第9章 人麻呂の子─躬都良と和歌子─
  1 隠岐伝承
  2 平城京にて

 巻末図表集
 参考文献
 写真と絵目録
 図表目録

 
内容紹介1
内容紹介2
 「はじめに」より引用


……。
   以上が柿本人麻呂の生涯の骨格である。この骨格を明らかにした梅原猛氏の業績は(あきらか)である。
 この骨格の上に梅原氏は次のような肉付けを行った。


持統天望の側近として、神話や祝詞などの作成に関与していた柿本人麻呂は、やがて官僚制度を重視する藤原氏によって邪魔者として指弾され、反逆者の汚名を着せられるところとなり、名も「人麻呂」から「佐留(猨)」(人から猿) へと貶められ、和銅元年四月二十日、石見国益田の海上、高津の鴨島から海に放り込まれて、水死させられたとする。
(『柿本人麻呂』多田一臣著、203頁)


 多田一臣(ただかずおみ)氏による簡単な要約である。この梅原氏の肉付けに対しては益田勝実(ますだかつみ)氏(1923─2010)により、矛盾が指摘され、その矛盾は以下の二点に要約できるという。


一、正史である続日本紀が、改名までして流罪にした人物に対して、剥奪されたはずの「従四位下」の官位を記し、さらにその死を「卒」(四位、五位の死が「卒」)と表現するのは矛盾であること。
二、続日本紀が編まれる頃、仮に人麻呂の名誉回復がなされていたとしても、貶められた名と梅原氏が主張する「佐留(猨)」が、なおここに用いられているのは、これまた自己撞着が甚だしいこと。
(『柿本人麻呂』多田一臣著、203~204頁)



 しかし、公平に見て、梅原氏による人麻呂の生涯の肉付けに矛盾が見つかったというだけである。梅原氏が打ち立てた骨格は揺るがない。梅原氏による骨格に矛盾の無い肉付けを行えばよいだけである。
 私による肉付けである。梅原氏による骨格を前提とした人麻呂研究結果の大要を述べると、孝徳帝の時代に生まれた人麻呂は、天武帝の時代に歌人としてデビュ─し、その才能を認められて、稗田阿礼(ひえだのあれ)として古事記に関わった。持統帝の代になると宮廷歌人となって出世し明日香皇女(あすかのひめみこ)と結婚した。文武帝の代に遣唐使に任命されるが、渡唐を拒否し、長門(ながと)に流刑になり、石見に移って生活した後、赦免を受けて上京し、原古事記を献上して復権する。ところが、この原古事記はヤマト王権の秘密を暴露するも同然のものだという太安万侶(おおのやすまろ)の告発を受け、石見で絞首刑となり、水葬に付された。
 特筆すべきは、流刑の原因が遣唐使で、刑死の原因が古事記であることを明らかにした点である。
 この肉付け(人麻呂の生涯に関する仮説)に従って、益田勝実氏指摘の矛盾に答えよう。
 まず、一、について。
 流罪の時は改名に値すると評価されるまでの事はしていない。渡唐を拒否して除名を受け流罪になっただけである。その後、復権して「従四位下」に叙されたが、原古事記による秘密暴露の大罪により秘密裏に処刑された上で、除名を受けた。続日本紀が「従四位下」の官位を記し、さらにその死を「卒」と表現するのは、この大罪により処刑されたことを隠すためである。そもそも、この記録が残されたのは続日本紀の編纂者が持っていた史家としての良心によるものである。
 次に、二、について。
 続日本紀が編まれる頃にも名誉回復は為されていない。ただ、続日本紀が編纂される頃には、処罰感情が薄らいでいたので、「猨」より穏やかな「佐留(さる)」という表現になったということである。
 以下、梅原猛氏の成果を踏まえて、柿本人麻呂という歴史上著名な人物について、その人生をたどりつつ、柿本人麻呂にまつわる謎の数々を解明し、柿本人麻呂の生涯を明らかにして行く。その中で、人麻呂の生涯に関する仮説の理由・根拠を説明するとともに、この仮説に基づいて史実を説明する。
 ……。     
第6章「持統帝の代─宮廷歌人の結婚─」より紹介


東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
東に野の(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
(万葉集第一巻、四八番)


 この歌が歌われたのが、持統紀六年四月十五日、西暦692年の5月6日であることを明らかにしました。
 その部分を公開します。


……。

692年
 四月十五日に、軽皇子一行が安騎野で朝を迎える。〔独自〕


 万葉集第一巻の四五番から四九番歌は、題詞によれば、「軽皇子が安騎の野に宿った時に柿本朝臣人麻呂が作った歌」で、安騎の野は奈良県宇陀市付近にある。この歌は持統天皇の伊勢御幸の歌の直後にある。なので、この歌が作られた事情は次のようなものだと考えられる。
 持統天皇は伊勢御幸において明日香皇女との仲を許してもらいたいという人麻呂の嘆願を聞いた。その嘆願を熟慮中の持統天皇は、人麻呂の忠誠心を試すために、軽皇子の遊猟に従って歌を作るように命じた。軽皇子の一行に加わった人麻呂は安騎の野で名歌を作った。


軽皇子が安騎の野に宿った時に柿本朝臣人麻呂が作った歌
やすみしし 吾が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす (みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道(やまぢ)を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古昔(いにしへ)思ひて
(万葉集第一巻、四五番)

安騎の野に宿る旅人うち靡き寐もやらめやも
(いにしへ)思ふに
(万葉集第一巻、四六番)


ま草刈る荒野にはあれど
黄葉(もみぢば)の過ぎにし君が形見とそ来し
(万葉集第一巻、四七番)

東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
東に野の
(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
(万葉集第一巻、四八番)

日並(ひなみし)の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
(万葉集第一巻、四九番)


 これらの歌が作られたのはいつだろうか。四八番歌は、東に太陽が昇ろうとして(かぎろひ)のたった時に、西を反り見ると月が沈もうとしていたという。早朝、太陽が昇る頃に、西で月が沈む天体事象をシミュレ─ションして見つければよいことになる。
 見つけるにしても時期を絞る必要がある。その大体の時期は、これらの歌の第一巻における位置が、伊勢御幸の後で、五〇番の「藤原宮の役民の作った歌」の前であることから分かる。
 伊勢御幸は692年の三月に行われたので、692年四月以降。
 五〇番の左注には、「日本紀が曰うには、「朱鳥七年癸巳(きし)(693年)の秋八月、藤原宮の地に幸したまいき」、「八年甲午(694年)の春正月、藤原宮に幸したまいき」、「冬十二月庚戌の朔の乙卯、藤原宮に遷居したまいきという。」とあるので、693年の七月以前。
 したがって、692年の四月から693年の七月の間に安騎野の歌は作られたことになり、その間を探せばよいことになる。
 探す方法だが、天文シミュレ─ションソフトウェアを使用する。ステラナビゲ─タ─9を使用した。具体的には、場所を宇陀市付近に設定する。そして、太陽は東から昇るのに決まっているから、西の地平線だけを観察し、早朝の太陽が昇る時間に、月が西の方で沈むのを見つければよいことになる。
 そのような日時を探すと、太陽暦692年5月6日、陰暦の四月十五日が当てはまることが分かった。ちょうど太陽が昇る頃に、月が西南西の方角に沈む。その日の太陽が出始める時は、4時54分。月が没し始めるのが4時44分。月齢は一三・七。
 692年の四月十五日の早朝、太陽が昇り始める徴候を示す陽炎を見た柿本人麻呂が西を反り見ると、月が沈もうとしていた。
 では、人麻呂が東で見たのは、曙光だけなのか、それとも陽炎も見たのか。四月であり陽炎が立ちうる時期である。通常は「東の野に炎」と読むが原文に忠実に読むと「東に、野の炎」となる。東では、野が炎となって燃えているように見えたのだから、それは陽炎によるものと考えられる。また、陽炎の一部である「炎」を用いている以上、陽炎が立ったと考えるべきだ。
 ……。

「東に野の炎」
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